堀江敏幸『いつか王子駅で』

背中に昇り龍を背負う印鑑職人の正吉さんと、偶然に知り合った時間給講師の私。大切な人に印鑑を届けるといったきり姿を消した正吉さんと、私が最後に言葉を交わした居酒屋には、土産のカステラの箱が置き忘れたままになっていた…。

堀江敏幸さんは『熊の敷石』で芥川賞、『雪沼とその周辺』で谷崎潤一郎賞などを受賞しており、この『いつか王子駅で』は同氏の初長編とのことです。長編ということで一応本筋らしきものはあるのですが、特に大きな事件が起こるわけでもなく、主に描かれているのは下町の日常生活の中で「私」が感じたこと、考えたことであり、これがワンセンテンスが長めの美しい文章で、丁寧に淡々と綴られています。そしてこの文体と、古書、都電、昭和の名馬といったテーマもあいまって、作品全体になんとも懐かしく静かな雰囲気が漂っていました。

最近は純文学というとエキセントリックで刺激の強い作品も多くなっていますが、この小説は現代の流行からは遠く離れた正統派の古きよき純文学といった印象で、読んでいて非常に心地よかったです。この作家さんは少し追いかけてみたいと思います。